浅草橋


「浅草橋に住んでるんですよ」と言うと誰もがだいたい「うぅん?どこそれ?浅草?」という反応をする。そう言われるたびに僕は「こんな面白いところ知らないのか」と心の中でほくそ笑んでいるのだが、自分が住んでいるという贔屓眼抜きにしてもここは本当に東京の奥深さを知らされる場所であり、ある意味では時代に取り残されてしまったような場所のひとつでもある。
僕はここに越してきて四年目になるが、住む前はとても殺伐とした街というイメージが強くSFに出てきそうなゴーストタウンに住めることを楽しみにしていたのだが、この期待はいい意味で裏切られてしまった。確かに浅草橋の隣街である神田鍛冶町日本橋人形町は中小企業向けのオフィス街で昼間はサラリーマンだらけ、夜は猫も通らんというようなゴーストタウンなのであるが、浅草橋は昔ながらの問屋街が産業の中心にあり、これがいろいろな面において現在の山の手東エリア、いわゆる江戸町屋だった他のエリアとは異なる空間を生み出す要因になっている。
まず問屋といっても紙問屋とか釘問屋とかいった非常に小さなものを扱う家族経営型の問屋が多く、職住一致の状態がかなり残っているのである。表通り沿いはさすがにペンシルビルに変わってしまったが、一本入るとそこには土間のある昔ながらの近代町屋が現役で残っていて、ちょっと覗きこむとそこではおじさんとおばさんがテレビをぼんやり見ながら帳簿をいじっているという風景をどこでも見ることもできる。近年ではではこうした問屋の中でも特に若者向けのビーズや装飾品関係の店舗が活況で、新しくここに問屋を構える若者も少なくない。また、蕎麦屋とか定食屋などの飲食店もほとんどは長くここで営んでいる店で、遅めに昼御飯を食べに入るとそこのうちの子供が小学校から帰ってきて家族でご飯を食べている、というようなことがよくあったりする。本当に『寅さん』や『鬼バカ』のような風景、最近だと『三丁目の夕日』を地でいく日常が繰り広げられているのだ。そしてこうした地域性をよく象徴しているのが祭りである。年から年中とにかく祭りだらけで、夏なんかは毎週何かしら催されている。ところで祭りの費用というのはふつう町内会費から出されており、単身者が増えていくと当然そんなものには入らないので徐々に祭りは消えていく。一方この街がこれだけの数の祭りを維持できているというのは、とりもなおさず地域の横の連携が非常に強いことの証拠だろう。確かに何かあっても店をたたんで他の場所に行くということは難しいだろうし、先代先々代からの付き合いとかいうことになればいろいろ離れがたいものもあろう。それが住み良いかどうかは別として、強制力を持つ地域性の結果として祭りというイベントが維持され続けているというのは非常に興味深いものがある。
次に、この街にはスーパーやデパートというものが存在しない。最低でも電車で二駅行かないとどちらともない。その代り肉屋や八百屋というような店が何件もあって、中には鶏肉専門店というものまである。だから街の中で買い物をしようとすると一つの店だけで済むことはまずなく、何軒も何軒もまわらなければならないのである。実際のところこれは不便である。スーパーに比べて値段は高いし、日曜日はどこも閉まるので買い出しができないし、なによりあっちこっち行くのはくたびれる。いろいろと文句はあるのだが、逆にこうした機能の分散によって街を隅々まで利用せざるを得なくなるのである。そしていくつものお店を回っているうちに「あれ、こんなところにこんなお店があったんだ」という発見を次々とする。これは一般的な住宅地で育ち相模大野というこれまた郊外住宅地で学生時代を送った自分にとって非常に新鮮なできごとであった。そしてあっちこっち行くことに慣れてくると徐々に街をうまく利用することができるようになっていく。たまには家風呂じゃなくて大きな銭湯に行ってみたり、午後の紅茶は家ではなくモンゴル料理屋で飲んでみたり、とか。つまり街を家の延長として利用しているわけである。
また、あまり知られていないことだが実は浅草橋はチャイナタウンなのである。チャイナタウンというよりむしろ多国籍タウンと言ったほうが適切かもしれない。中国人をはじめモンゴル人やロシア人と言った英語を話さない人たち、すなわちあまり所得の高くない外国の人たちが多く店を構えている。彼らは基本的に出稼ぎではなく一族郎党揃って日本に来て飲食店を中心に営業している。だから先ほど述べたような家族経営の風景を中国版、モンゴル版などで演じてくれるのである。そしてもちろん彼らは安い物件しか借りられないわけで、そうなると古い町屋をそのままのかたちで利用することになり、ありがちなマンション建設というものを抑止する力にもなっているのである。これは、図らずも東京が都心から失いつつある地域性を彼らが引き継いでいるという見方がができる。
こうしたさまざまな要因が組み合わされることによって浅草橋という場所は一般的な印象の薄さとは裏腹に特殊なコンテクストを発展させた場所となったのである。すなわち北を浅草、西を秋葉原、南を日本橋、東を両国という強固なコンテクストの狭間にあって、そうした現代東京の持つビビッドな色彩にはないいぶし銀の輝きを放ち続けている。

上段:若者向けのアクセサリー部材問屋に改装された店舗
中段:昔ながらの紙問屋
下段:戦前のオフィスビル。左は曾根・中條事務所による昭和三年の設計、右は設計者等不明