浅草橋


「浅草橋に住んでるんですよ」と言うと誰もがだいたい「うぅん?どこそれ?浅草?」という反応をする。そう言われるたびに僕は「こんな面白いところ知らないのか」と心の中でほくそ笑んでいるのだが、自分が住んでいるという贔屓眼抜きにしてもここは本当に東京の奥深さを知らされる場所であり、ある意味では時代に取り残されてしまったような場所のひとつでもある。
僕はここに越してきて四年目になるが、住む前はとても殺伐とした街というイメージが強くSFに出てきそうなゴーストタウンに住めることを楽しみにしていたのだが、この期待はいい意味で裏切られてしまった。確かに浅草橋の隣街である神田鍛冶町日本橋人形町は中小企業向けのオフィス街で昼間はサラリーマンだらけ、夜は猫も通らんというようなゴーストタウンなのであるが、浅草橋は昔ながらの問屋街が産業の中心にあり、これがいろいろな面において現在の山の手東エリア、いわゆる江戸町屋だった他のエリアとは異なる空間を生み出す要因になっている。
まず問屋といっても紙問屋とか釘問屋とかいった非常に小さなものを扱う家族経営型の問屋が多く、職住一致の状態がかなり残っているのである。表通り沿いはさすがにペンシルビルに変わってしまったが、一本入るとそこには土間のある昔ながらの近代町屋が現役で残っていて、ちょっと覗きこむとそこではおじさんとおばさんがテレビをぼんやり見ながら帳簿をいじっているという風景をどこでも見ることもできる。近年ではではこうした問屋の中でも特に若者向けのビーズや装飾品関係の店舗が活況で、新しくここに問屋を構える若者も少なくない。また、蕎麦屋とか定食屋などの飲食店もほとんどは長くここで営んでいる店で、遅めに昼御飯を食べに入るとそこのうちの子供が小学校から帰ってきて家族でご飯を食べている、というようなことがよくあったりする。本当に『寅さん』や『鬼バカ』のような風景、最近だと『三丁目の夕日』を地でいく日常が繰り広げられているのだ。そしてこうした地域性をよく象徴しているのが祭りである。年から年中とにかく祭りだらけで、夏なんかは毎週何かしら催されている。ところで祭りの費用というのはふつう町内会費から出されており、単身者が増えていくと当然そんなものには入らないので徐々に祭りは消えていく。一方この街がこれだけの数の祭りを維持できているというのは、とりもなおさず地域の横の連携が非常に強いことの証拠だろう。確かに何かあっても店をたたんで他の場所に行くということは難しいだろうし、先代先々代からの付き合いとかいうことになればいろいろ離れがたいものもあろう。それが住み良いかどうかは別として、強制力を持つ地域性の結果として祭りというイベントが維持され続けているというのは非常に興味深いものがある。
次に、この街にはスーパーやデパートというものが存在しない。最低でも電車で二駅行かないとどちらともない。その代り肉屋や八百屋というような店が何件もあって、中には鶏肉専門店というものまである。だから街の中で買い物をしようとすると一つの店だけで済むことはまずなく、何軒も何軒もまわらなければならないのである。実際のところこれは不便である。スーパーに比べて値段は高いし、日曜日はどこも閉まるので買い出しができないし、なによりあっちこっち行くのはくたびれる。いろいろと文句はあるのだが、逆にこうした機能の分散によって街を隅々まで利用せざるを得なくなるのである。そしていくつものお店を回っているうちに「あれ、こんなところにこんなお店があったんだ」という発見を次々とする。これは一般的な住宅地で育ち相模大野というこれまた郊外住宅地で学生時代を送った自分にとって非常に新鮮なできごとであった。そしてあっちこっち行くことに慣れてくると徐々に街をうまく利用することができるようになっていく。たまには家風呂じゃなくて大きな銭湯に行ってみたり、午後の紅茶は家ではなくモンゴル料理屋で飲んでみたり、とか。つまり街を家の延長として利用しているわけである。
また、あまり知られていないことだが実は浅草橋はチャイナタウンなのである。チャイナタウンというよりむしろ多国籍タウンと言ったほうが適切かもしれない。中国人をはじめモンゴル人やロシア人と言った英語を話さない人たち、すなわちあまり所得の高くない外国の人たちが多く店を構えている。彼らは基本的に出稼ぎではなく一族郎党揃って日本に来て飲食店を中心に営業している。だから先ほど述べたような家族経営の風景を中国版、モンゴル版などで演じてくれるのである。そしてもちろん彼らは安い物件しか借りられないわけで、そうなると古い町屋をそのままのかたちで利用することになり、ありがちなマンション建設というものを抑止する力にもなっているのである。これは、図らずも東京が都心から失いつつある地域性を彼らが引き継いでいるという見方がができる。
こうしたさまざまな要因が組み合わされることによって浅草橋という場所は一般的な印象の薄さとは裏腹に特殊なコンテクストを発展させた場所となったのである。すなわち北を浅草、西を秋葉原、南を日本橋、東を両国という強固なコンテクストの狭間にあって、そうした現代東京の持つビビッドな色彩にはないいぶし銀の輝きを放ち続けている。

上段:若者向けのアクセサリー部材問屋に改装された店舗
中段:昔ながらの紙問屋
下段:戦前のオフィスビル。左は曾根・中條事務所による昭和三年の設計、右は設計者等不明

雍和宫

日本的空間の一つの特徴はその「奥行き性」にあると言われる。たとえば銀座中央通りから一本入ってどこに行きつくか分からない路地をするすると歩く、たとえば明治神宮で本堂に至るまで延々と曲がりくねった道を行く、たとえば京の寺社でエントランスから日本庭園に至るまでのシークエンスを楽しむ。こういう見えそうで見えない、次の展開が分からない、どこまでも続いていくかのような空間のあり方がすなわち奥行き性と言える。代官山ヒルサイドテラスなどで有名な槇文彦の名著『見え隠れする都市』ではさまざまなかたちで東京に存在するこの「奥の思想」が紹介されているし、日本の住空間は「締」「縁」「間」「奥」「離」の五つの基本原理があって云々という話は各種文化論や建築論でさんざん取り上げられていて、まさに奥の深い話なのである。ただそんなハイソなことを言わずとも日本人はなぜかみんな路地のような細い空間が好きで、海外に行っても必ずそういう場所の写真を撮ってしまう。僕もそういう空間が大好きで京都の寺社を巡ったりして「やはり奥行き性は日本の文化ですなぁ」などと言っていたのだが、実はそういう日本の奥行き性とは全く異なる、しかしやはり奥行き性という言葉以外では表し得ない空間があることを僕はこの雍和宫で知ることになった。
中国の寺社建築というのは日本のそれとは異なり、基本的に敷地内には明確な軸線が存在し建物はすべて左右対称に配置されていく。この雍和宫もまさにその通りで、塀に囲われた四角形の敷地の中にいくつかの建物が存在していて参拝者は軸線に沿って奥へと進みつつ各お堂で線香をあげていくことになる。要するにここに来る人はあっちこっち視線や動線を移すことなくまっすぐ進んでいけばいいので、この基本構成だけから見ればいわゆる日本的奥行き性からは無縁なのである。
しかしここはそう問屋が卸さなかった。まず参道を通って門をくぐると大きな長方形の中庭(左図)に出る。参拝者ならまずこの中庭正面にある天皇殿(一階建)で参拝する。ここまでは普通だ。天皇殿を抜けると新たな中庭に出るのだが、ふと前の中庭よりその東西幅が狭くなっていることに気づく。さらに出てすぐの場所には四体文碑亭という大きい祠がドーンと鎮座しているため中庭が二つに分割されているように錯覚し圧迫感を受ける(右図)。
四体文碑亭を回りこんで二つ目のお堂である永佑殿(二階建)を超えると三つ目の中庭が出現し、今度は東西幅はそのままに南北幅が圧縮されてますます圧迫感が増してくる(左図)。そしてこの中庭に面する法輪殿(三階建て)を超えると眼前には25mを超えようかという巨大な万福閣が聳え立っており、且つそれに面する四つ目の中庭は南北方向にギューッと圧縮されているため、万福閣がものすごい勢いで迫ってくる(右図)。ここがいわばメインディッシュといったところだろうと思い皆やれやれと一息つくのだが実はこれが最後ではなく、路地のような脇道をすり抜けていくとさらにそこには最後のお堂であるダ成楼(二階建)がある。これは中庭とは呼べないほどの細い外部空間を万福閣との間に持っているだけで、圧迫感を超えて何かポケットの中にすっぽり入ったかのような心地よさがある。
と、ここまでいろいろとシークエンスについて書いてきたわけなのだが、要するに雍和宫の中には中庭の規模と建物の高さによってさまざまなスケール感が生み出されており、強い左右対称性と軸性を持っているにもかかわらずそれは「奥行き性」と呼べるような空間を持っている、ということなのだ。まぁ奥行き性などという概念は所詮個人個人の価値観によって名付けられるものなのだから、世界じゅういろいろなところにさまざまな価値観に基づく奥行き性があるのだろうが、僕の視点からはこの場所がそういう日本的奥行き性とは異なる新たな奥行き性を持っているように感じられたのであった。
ではなぜこういう空間的操作が必要だったのだろうか。それはここに安置されている仏像たちと関係がある。天皇殿、永佑殿、法輪殿、万福閣、ダ成楼それぞれの中には仏像が納められていて参拝者は各所で線香をあげて進んでいくわけなのだが、さきほど書いた建物の規模高さに比例して中の仏像も徐々に大きくなっていくのだ。万福閣に至っては外からは大仏様の足しか見えず、中に入ると18mを超える巨大な仏像に圧倒されることになる。すなわちこの長いシークエンスは仏の偉大さ知らしめ信仰心を喚起させるための巧妙な空間装置なのである。もちろん宗教建築というのは他の建築プログラムと大きく違って感動させることがその主目的なわけだからそれは当然なんだが、でもそれを誰にでもわかりやすいかたちで表現し緻密に設計していくというのは非常に難しい。
ところでこの雍和宫はラマ教の総本山として清朝時代に国家事業として整備されたものであるため、他の寺院ではあまり見られないような状況を目にすることができる。少数民族である満州族が圧倒的大多数である漢民族蒙古族などの他の民族をまとめていたことは有名だが、それ故いくつかの碑文は漢語、チベット語満州語モンゴル語で書かれている。また乾隆帝自身によって建設されたため皇帝のシンボルである黄色の瑠璃瓦が葺かれている。そして何よりちゃんと参拝している人がとても多いのが印象的である。ちゃんとというのもおかしな話なのだが、寺院でも教会でも有名になってしまうとどうしても参拝者よりも観光客が多くなってしまうのが常なのに、ここは老若男女多くの人がひっきりなしに参拝しているのだ。北京大学の友人に聞いたところでは受験生も多く参拝に来るそうなのでラマ教に限らず広く参拝の対象になっているのかもしれない。

施設名称:雍和宫
施設用途:宗教施設
竣工:1725
住所:北京雍和宫大街12号
最寄駅:雍和宫駅
参考HP:http://www.yonghegong.cn/

円明園−西洋楼遺跡

僕は北京の人間や気候はどうしても好きになれないのだが、それでも北京という場所は間違いなく独自の魅力を持っている。すなわち、皇帝のための場所という魅力である。いわゆるヒューマンスケールなどというものにとらわれることのない、まさに宇宙で一番偉い皇帝にふさわしく、何もかもが巨大で果てしないのだ。紫禁城を囲むように東西南北に配置された月壇、日壇、地壇、天壇の四つの公園はもともと皇帝が月、太陽、大地、宇宙と向かい合う場所としてつくられたものであるが、こういう発想をこの規模で実現した都市を僕は他に知らない。そしてその皇帝が夏の避暑地としてつくりあげたのがこの円明園である。
ちょうど真隣に位置する頤和園世界遺産に指定されたことから一般の観光客の多くはそちらに流れてしまうが、ある意味こここそが世界的な遺産だと僕は考えている。この公園そのものは清代の皇帝たちによって150年をかけてつくりあげられ、その後第二次アヘン戦争時にイギリス・フランス軍によって完全に破壊される。そしてこの公園内にある西洋楼遺跡はその歴史を如実に物語っている。この西洋楼遺跡にはかつての建物がその破壊された状態のまま放置されており、いわゆる廃墟という名にふさわしい独自の風景を生み出しているのだ。そして西洋楼という名の通り、建物はすべて古典主義を真似た擬洋風でつくりあげられており、スケールやディテールのおかしな古典主義建築が点在している。中国の擬洋風建築且つ廃墟化という二段構えの面白さである。
そもそもなぜここがこういう状態で保存されているかというと、建前としては愛国教育の名のもと憎き帝国主義の所業を後世に残さんということなのだが、おそらく単純に復元するだけの予算が準備しにくかったのだと思う。ちょうど先日この西洋楼の復元が決定し総額200億元(1元15円とすると3000億)のお金がつぎ込まれることになったのだが、まだまだ国内で歴史的な面やその膨大な金額の面などで議論が噴出しているため、本当に完了できるのか疑わしい。
ところで僕はこの復元には反対である。200億元もかけて復元することがどの程度の経済効果を生むのか全く分からないというのがひとつ。観光客がどの程度増えるのかも分からないし、多少増えたところで周辺の景気が底上げされることは考えにくい。もうひとつは、ここが歴史というものを言葉や絵ではなくモノそのものとして明確に示してくれる稀有な場所だからだ。復元が全くなされていない(若干の修復はあるが)ということは200年以上の年月を経て廃墟になり、いまこの瞬間にもそのプロセスを辿っている場所を目にすることができるわけだ。さらにこの場所には誰もが土足で入っていくことができ、その廃墟化のプロセスをただ目で見るだけでなく身を持って経験することができるのである。そうした場所が都市に担保され重積されていくことが、今後大都市が独自性を保持するために重要だと考えている。もし円明園の廃墟が一掃されそこにピカピカの「遺跡」が復元されたとしても、それはできの悪いディズニーランド以上のなにものでもない。200億元という途方もないお金をつぎ込むことで得られるものと失うものを比べれば、あまりに費用対効果の悪い話であることは明らかなのだ。
まぁ僕にできるのは、柱からもげたイオニア風飾りのうえに腰を下ろしピンク色の夕日が沈むまで壮大な歴史に思いを巡らしつつ、この楽しみが奪われないよう願うことくらいなのだが。
施設名称:円明園西洋楼遺跡
設計者:不明
施設用途:公園
竣工:1725
住所:北京市海淀区清華西路28号
最寄駅:五道口駅からタクシー

ホテルという場所

旅ではホテルに泊まるというのも大きな楽しみである。
菊竹清則事務所で長く番頭を務めた遠藤勝勧さんという人は「実測するならどんな高級ホテルにも泊めてやる」と菊竹さんに言われて、それから泊まったホテルは全て実測をしているという。一見同じように見える大規模なホテルでも、小さな客室空間をどう心地よく寛げるようにするか、という知恵を設計者は詰め込んでいるわけである。最近は僕は実測しなくなってしまったが、やっぱりそういう知恵を観察するのは楽しい。また、飲食関係の人と話をすると「最後はホテルを経営したい」という人がとても多い。そしてその理由はだいたい「人をもてなすという意味においてそれ以上の場所はないから」というものである。確かに良いホテルに泊まるとちょっとしたことにまで気配りがなされていて、とても心地よいものである。さらにホテルは客室だけでなくレストランや商業施設といったさまざまな機能が高度に複合されており、規模が増せばほとんどひとつの街のようになっていく。
そういういろいろな意味でホテルは面白いわけなのだが、短期滞在だとなかなか目が行き届かないし、物理的な施設面だけではなくサービスというものがモノを言うので、このブログではなくTripAdviserでラフに書き殴ってみることにする。それから良いホテルも多い反面、悪いホテルというのも世の中には相当数あるので、そういうのに引っかからないで欲しいという気持ちから居心地の悪いホテルというのも遠慮せずに書いていくことにする。ちなみに星評価は費用対効果でつけている。
http://www.tripadvisor.jp/members-reviews/t02240dk

キューバ国立芸術大学

キューバという国名を聞いてチェ・ゲバラ以外を思い浮かべられる人はそういないだろう。少しおしゃれな人だと葉巻とサルサ、さらに分かる人だとハバナクラブの12年と16年・・・とそれはさておき、この国は日本のほぼ真裏にあり日本からの直行便も夏休みの限られた時期以外全くなく、さらに共産主義国家=北朝鮮という最悪のイメージのある日本人からはいろいろな意味で遠い国である。また首都ハバナには実際これといったベタな観光名所はあまりなくビーチも街の中心部からは外れるので、酒と葉巻に何の興味のない人にとってはあまり面白くないのは事実である。しかし、もし街並みを散策するだけで楽しいと思えるような人にとってはハバナは最高の場所である。
「僕らは世界で一番美しい街に住んでいる。」
『苺とチョコレート』というキューバ映画の中で主人公がハバナの旧市街地を見渡しながら呟くシーンがあるが、これはあながち誇張ではない。ハバナ旧市街地はスペインの植民地下で大量に建設されたコロニアル様式*1の住宅が軒を連ねており、『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』で描かれているままの風景がそこにあるのだ。皮肉ではあるがこの国の長い政治的混迷の中で建て替える技術も経済的余裕もなく、少しずつ修繕されながら住まわれ続け、結果、他のコロニアル様式を持つ都市に比べて格段にその保存状態が良いのである。そしてこの旧市街地のはずれに突如現れる異形の建物こそ今回紹介するキューバ国立芸術大学である。
この大学はその名のとおり芸術大学で音楽から美術、舞踊、映像とほぼ全ての芸術に関する学科が集められている。キューバというのは実は南米では非常に芸術が盛んな国であり、たとえばハバナ国際映画祭というのは南米の映画祭の中では著名なものである。そしてこの大学はそうした芸術の担い手を育てるためキューバ革命後に設立され、特に舞踊科のスタジオとしてとびっきり前衛的な建物が設計された。委託されたのはキューバ出身のアバンギャルド建築家リカルド・ポロ。彼は80歳を過ぎた今も現役でパリを中心にいくつかの実作を残しているが、多くはプロジェクトに終わり現在ではあまり顧みられることのない建築家である。他のアバンギャルド建築家も同様だが、こうした建築家の作品というのは紙の上で見ている限りではカッコよく見えるが実際に建ってみるととても「残念」な作品になることが多い。理由は単純で、実際に建てる方法を知らないのである。アバンギャルド建築家は往々にして学生時代からその舌鋒とセンスの良さで高く評価されるが、実務経験を経ないまま建築家となるためアイデアやコンセプトが面白くても結局それをかたちにできないわけである。ポロ自身も作品が建つようになったのは1990年代以降のことである。個人的にはあまりそういう建築家の作品というのは好きでないのだが、ハバナでは他に見るべき近代建築もないのでまぁ見るだけ見てみるかと行ったのだが、これが想像よりずっと良いのだ。確かに外見を見る限り非常にコンセプチュアルで異形なのだが、内部に入ってしまうとそんな外観からは想像できないくらい自然で心地よい空間が広がっていたのだ。
外観は見てのとおり人間か何かの内臓のようであり、円形平面ドーム形の建物を曲線の廊下が非常に有機的に結び付けている。その曲線も何かあまり美しくなく不定形で、文字通り有機的な雰囲気である。このという建築家、設計のコンセプトはまさにその「有機的建築」であり、彼の残したドローイングやコンセプト模型を見るとカエルが解剖されたようなプランなどかなり尖がった建築家だったことが分かる。そもそも有機的建築なるコンセプトはモダニズムの均質性批判から生まれたポストモダンの一つの流れであるから、自然界に存在する構造や形態を模倣しようという建築家は当時多くいたが、ここまで直接的な表現をした建築家は珍しいだろう。
エントランスらしき大きなヴォールトの通路に足を踏み入れると、徐々に天井が低くなっていき、うねうねと通路が蛇行し始める。周囲の豊かな木々、大小さまざまなドーム、そしてドームの間に発生する不整形な中庭。景色が次々と変化し、さまざまな空間が出現し、徐々に自分が建物の内部にいるのか外部にいるのか分からなくなってくる。がっしりとしたRCとレンガの躯体を持っているにもかかわらず、建物の内外を隔てる明確な境界がなくどこまでも空間が続いているかのような奥行き感を持っているのだ。ここでふと思ったのは、こういう感覚は、建物の境界面に着目したここ数年の流行建築のそれと少し似ているということである。たとえば妹島和世の作品のようにゆるやかに外部と内部が分割され内とも外とも言えない曖昧な空間を持っているようなものである。もちろん両者には何の接点もありはしないのだが、偶然いま流行りの建築と似た性質のものが半世紀近くも前に中米の共産主義国家で生まれていたというのはなんとなく面白い。さらにこのコンセプチュアルな形態がRCと煉瓦という非常にブルータルな素材のみで造られているのも興味深い。もちろん設計者がブルータリズム*2に傾倒していたとは考えにくいので純粋に技術的制約からこの素材しか扱えなかったのだろうが、これがキューバという荒々しい大地にこの特殊な形態をうまく根付かせている。僕が行ったときにちょうど始まった大規模な修復工事でもかなりざっくりした施工をしているのだが、それでもオリジナルの状態とさほど変わらないように復元できているのは設計者が現地の人間の施工レベルを熟知していたためだろう。
いずれにせよこんな地の果てでこういう素晴らしい建築を見つけられたのは本当に嬉しいことであった。だから旅はやめられないのだ。


施設名称:Instituto Superior de Artes
設計者:Ricardo Porro
施設用途:教育施設
竣工:1961
住所:Calle 120 #1110 e/9na y 13. Cubanacan. Playa. Ciudad de la Habana. Cuba.
最寄駅:なし
参考HP:http://fr.wikipedia.org/wiki/Ricardo_Porro

*1:スペイン人などが高温多湿の植民地で生活するために用いたデザイン。厳密な定義はないが、四周にテラスを廻らせ、瓦屋根に白壁といったスペインの一般住宅をもとにデザインされた。日本でも横浜など旧外国人居留地にいくつか現存する。

*2:近代建築の均質性への反動から、土着的志向性を持つ建築。シャンティガールなどの後期コルビュジエ作品などが代表作品といえる。

シャンゼリゼ劇場


ル・アーブルで大活躍だったオーギュスト・ペレだが、もうひとつだけ彼の作品を紹介させてもらおう。彼の作品はもちろんパリにもたくさんあり、すでに述べたようにエッフェル塔などかなり中心部に多く立地している。その中から今回紹介したいのはPont de l'Alma橋の北側に位置するシャンゼリゼ劇場である。シャンゼリゼといってもシャンゼリゼ通りからは一本入った高級ブティック街に静かに位置しているため「あれ、ここなの?」といった第一印象を受けるだろう。僕もたまたま会社の本社がAlma橋の南側にあったため、用事ついでに立面だけ見ようと思い行ってみたのだが、なんだか右翼か左翼が好きそうなダメな新古典主義建築的ファサードでかなり戸惑ってしまった。というより、ペレの作品だとはどうしても信じられなかった。RC打放しでないどころか大理石研磨仕上げ、窓サッシは金!しかも頂部にはなんだか変なレリーフまで彫られちゃっている。どうなのよこれは、ということでその日はげんなりして帰ってきたのであった。で、ちょっと調べて納得したのだが、ここはペレとアンリ・ヴァン・ド・ヴェルドというアール・ヌーボーの代表的建築家の共作なのである。厳密にはヴァン・ド・ヴェルド設計、ペレ事務所施工(彼は兄弟で建設会社も経営していた)というかたちだったものを、かなり強引にペレが設計まで自分のものにしてしまったというのが実際のところのようだ。さらにファサードレリーフをアンドワーヌ・ブールデルが担当し、ホール天井をモーリス・ドニエドゥアール・ヴュイヤールが担当するという当時最先端のデザイナーが集結した建築だったのである。でも僕としてはやっぱり今一つそのファサードには納得できなくて、内部空間をどうしても見てみたいと思いバカンス明け一発目のフランス国立フィルのコンサートへ行くことにしたのだった。
クラシックが好きな人なら知っているかもしれないが、ここはこけら落としストラヴィンスキーの『春の祭典』が演じられその作品性をめぐって上演中に観衆が本気の殴り合いをやったという、まぁ今聞くとなんだか微笑ましい逸話がある場所なんだが、ここはそういうパリが(建築だけでなく)モダニズムの中心だった頃の象徴みたいなところなのである。そんなわけで国立フィルも当然そこを意識しており、バカンス明けの演目はドヴィッシー『牧神の午後への前奏曲』『海』メシアン『ほほえみ』そしてストラヴィンスキー春の祭典』という、これならパリ市民も観光客も文句なかろうというフランス近代音楽の王道チョイスであった。
コンサート当日、劇場前は普段では信じられないほどの人でごった返し、テレビ局にラジオ局にとメディアも詰め掛けている。老若男女いろいろな人たちがいて、みな正装をしているわけでもないのにセンスの良い服を着こなしている。そしてエントランスの風除室を抜け二階吹き抜けのこじんまりとしたホワイエに足を踏み入れて初めて、これが紛れもないペレの建築だということに気づく。と同時にヴァン・ド・ヴェルドとの絶妙の競演、互いの持つ技が融合し一見どこからどこまでがペレ(またヴァン・ド・ヴェルド)の領分なのかわからないほど息の合った空間づくりに驚く。ペレが打放しコンクリートをパラディオ流グリッドで豪快に見せれば、ヴァンドヴェルドは花をモチーフとした手摺をエレガントに仕上げる。ペレの無骨なRCで覆われた通路の天井にはヴァンドヴェルドの照明の影が落ち、真白い空間に大きな蜘蛛の巣が張られたかのようである。とにかく至る所これでもかというくらいペレの構成とヴァンド・ド・ヴェルドのディテールが火花を散らしている。
そして各所を一通り見渡したのち、メインディッシュであるホールへ。ホールへのドアを開けると、とにかく何よりはじめに巨大な天井照明とによる天井画が目に飛び込んでくる。この天井照明は特別にエドゥアール・ヴュイヤールが担当しているのだが、ちょっとアールヌーボーをやるには大き過ぎる感じがある。また、モーリス・ドニによる天井画も建築に比べるとどうしても古さを感じてしまう。が、逆にこれ以外の選択肢が当時あったかと言われると、確かにペレにここを設計させるのはちょっと華がなさすぎるかもしれない。そして自分の席を探しながらホール全体を眺めると、想像した通り平面的には小さいのだが垂直方向に高くしかもホールを中心に円を描くプランニングになっているため竹筒の中にいるようである。席を見つけ座ろうと思ったのだが、これがまた小さい。測ってはいないがおよそ400mm四方弱くらいなので、劇場の席としては少し小さい。しかもその日は満員御礼の大入りだったので右も左も無いような状態であり窮屈な思いをしながら待つこと数分、ようやく開演する。そして『牧神』が終わり拍手が鳴り終え『海』が始まるあたりから、どうしたことか徐々にこの空間がとても心地よく感じられ始めたのだ。依然窮屈なのには変わりがなかったが、大勢の観衆がひとつの閉鎖された空間を共有し、舞台上で繰り広げられる演奏を中心にホール全体を熱気が包む。その熱気が自分の席の四方八方から感じられ、という客席数を持つホールでありながらあたかも芝居小屋かライブハウスにいるかのような一体感を持っているのだ。なるほど音楽を聴くということはこういうことだったのかということを思い出させられる。最近随分とクラシックのコンサートからはご無沙汰していたが、こういうホールであれば音楽の聴き方も変わってくるだろう。残念ながらこの特殊な平面のためお世辞にも音響は良いとは言えないのだが、それでも音響設備だのリクライニングシートだのばかりにこだわる設備重視のホールに比べればこの方がよっぽど音楽を聴くための場所として根源的な性質を持っていると言える。
しかし面白いのは、この設計を巡ってはペレがヴァン・ド・ヴェルドの設計案に対して(特に構造について)散々因縁をつけた挙げ句仕事そのものを自分のものにしまったわけだが、今まで書いたようにディテールはほとんどヴァン・ド・ヴェルドの設計をそのまま許容していると思われるし、さらに彼はここで用いた階段の手摺りディテールを全くそのままル・アーブル市庁舎の大階段に用いたりしている。こうしたディテールをどの程度誰が設計したかは手元の資料では分からないが、いずれにしてもこの建物がペレの作品の中で非常に異質な光を放つと同時に、世界でも希に見る新古典主義アールヌーボーの融合作品であることは確かなのである。

施設名称:Théâtre des Champs-Élysées
設計者:Auguste Perret, Henri van de Verde
施設用途:劇場
竣工:1912
住所:15 av. Montaigne, 8e, Champs-Élysées, PARIS
最寄駅:Pont de l'Alma
参考HP:http://www.theatrechampselysees.fr/

ボン・マルシェ


パリにはたくさんデパートがあって、観光客ならば一度はオペラ周辺に密集しているデパートへ足を延ばすだろう。しかし、今回紹介したいのは、それらからはかなり離れたルクセンブルグ宮殿そばに位置するボン・マルシェデパートである。パリ市内のデパートは多くが19世紀後半から20世紀初頭にかけて建設された歴史的建造物だが、このボン・マルシェデパートはさらに古く1852年創業、パリだけでなく世界で最も古いデパートなのである。幾度か大規模なリノベーションが行われているため現状では外装も内装も建設当初のものとは異なっているが、それゆえ他のデパートが歴史という重荷に引っ張られた重たいデザインを引き摺っているのに対して、オリジナルの空間の良さを活かしながら気の利いたなデザインに衣替えされている。
何より一番気持ち良い場所は中央に位置する巨大な吹き抜け空間だ。中央のエスカレーターを挟んで全長15m×40m四角形の吹き抜けがあり、それが一階から四階までズドンと吹き抜けているのだ。これは一般の商業施設の吹き抜けに比べると相当大きい。おそらく現在なら「無駄」の一言で商業床にされているところだろう。しかしこの吹き抜けはただデカいから良いというのではない。ここに来れば、誰もがこの建物の中で起こっている全てを見渡すことができる。つまり、視認性が非常に高い場所なのだ。それゆえここが強い求心力を持ち、建物内部の一体感を生み出している。休憩スペースがあるわけではないのに、ここに来ると誰もが手摺に寄り掛かってお客さんたちの動きを眺めたり、いろいろなテナントを見て次どこへ行こうかと思いを巡らせるのだ。
さらにこの視認性をより高めるためのデザインが吹き抜け周辺に施されている。まず吹き抜け周辺にテナントを一切置かないという点。これはギャラリー・ラファイエットと比べるとよくわかる。ラファイエットの方も中央に巨大な吹き抜けを持っているが、こちらでは吹き抜け周りにベタっとテナントを設けてしまっていて、お客さんが吹き抜けから首を覗かすことはできない。これではせっかくの吹き抜けもただの穴である。アール・ヌーボーの巨大な天井があるのでそれは一見の価値があるが、吹き抜けとしての価値は低い。一方ボン・マルシェでは吹き抜けの四周は全て通路になっており、どのテナントからでもアクセスできるようになっている。次は間仕切りである。普通のデパートであれば一つ一つのテナントが間仕切り壁を建て、時には東屋のように屋根を設けて各々の店舗デザインを施すのが一般的である。しかボン・マルシェの中では間仕切りは基本的に設けられていない。特に吹き抜け周辺のテナントは一切間仕切りがなく、通路とテナントスペースの間は真っ白のレースが掛けられているのみである。レースならば境界をつくることができ、同時に視線も通すことができるというわけだ。三つ目は−これが最も根源的なのだが−軽量鉄骨の構造である。実はこの建物の構造設計はあのエッフェルが手がけており、この素晴らしい吹き抜け空間はまさにこの軽量鉄骨とそれによる新たな空間づくりへの情熱無くしてはあり得なかったのである。この革命的な素材と構造によって大スパンの架構が可能になり吹き抜け部分を生み出し、細い柱は建物の垂直性を鮮やかに表現すると同時に大空間を光で満たすための天井採光を可能にしたのである。
僕はこの建物を見て、吹き抜けとその周辺デザインだけで商業施設というのはここまで豊かな空間になるのか、と随分感心した。しかし、こういう余裕のある空間づくりと個々のテナントの店舗デザインにまで踏み込んだ全体設計ができるのは、ここが本当に高級デパートだからなのだろう。テナントを見ても意外に一般的には知られていないブランドが入っていたり(現地では支持されているのだろう)、そもそもテナントスペースはかなり細かく分節されていて、家具売り場など直接ボン・マルシェが経営しているスペースが大きな面積を取っていたりする。だから観光客が行くとあまり見るものも買うものもなく面白くないかもしれないが、パリ市民にはまだまだ強く支持されているからこそ、こういう商売が続くのだろう。コンビニがなく、スーパーも日曜休日はばっちり休むこの国では、まだまだデパートが殿様商売をしていられるということなのかもしれない。

施設名称:Le Bon Marché
設計者:Louis Auguste Boileau, Gustave Eiffel
施設用途:商業施設
竣工:1850
住所:22, rue de Servres, 75007 PARIS
最寄駅:Sèvres-Babylone (line10,12)
参考HP:http://www.treeslbm.com/